教室が並ぶ長い廊下。
ある部屋のドアに画用紙が貼ってある。
『一宮皇道高校クイズ研究会 年中会員募集中(マニア歓迎)』
という手書き文字。
中からポーンという間の抜けた機械音が聞こえたかと思うと、すく後に叫び声が聞こえてきた。
前の廊下を歩いていた学生は、笑いながら早足で去っていった。
「あー、惜しいところで押し負けたー。今のわかってたのにー」
部屋の中でそう嘆いているのは、須賀芳樹。黒目の大きな、ぱっちりとした目をした青年。いつもおしゃれな帽子をかぶっている。テニス部にでも入っていたらモテただろう。
芳樹は早押し機が壊れているんじゃないかと何度も押して確かめている。
「あと一問正解したら、五問正解でわたしの勝ちね。芳樹が負けたら、約束通り、月曜日にわたしの分の弁当を作ってきてよね」
と広部香奈子が強気にいう。
顔を動かすたびに、ショートカットの黒髪がさらりと揺れた。
「何で僕が、弁当を……、クイズの女神様、僕に力を……」
部屋には、彼ら二人の他には誰もいなかった。それもそのはず、皇道高校のクイズ研究会の会員は二人だけなのだ。
「つべこべいわないの。次の問題いくわよ」
問題を自動で読む機械のリモコンボタンを押した。二人でも対戦できるようにと芳樹が買った装置。本体には六つの早押し機がつながっていて、押した瞬間に問題を読む声が止まる。そして、マイクに向かって答えると液晶の画面に答えが出る仕組みだ。
「問題、その著書『世界地誌序論』の中で……」
ポーンと元気よく香奈子が押した。
「よーし、先が読めたわ。続きは、新大陸をアメリゴ・ヴェスプッチにちなんで『アメリカ』と名付けたドイツの地図製作者は誰?よね。答えは…..」
眼鏡のレンズが光を反射した。
芳樹の顔を見ながら、
「マルチン・バルトゼーミュラー」
画面に答えが出る。「バルトゼーミュラー」正解。
「やりー、弁当ゲットー。弁当。弁当」
「何がやりーだよ。もう少し女の子らしくしろよな。お前がもう少し魅力的だったら、会員も増えるんだよ」
香奈子の顔を見て続ける。
「とりあえず、その黒縁眼鏡をコンタクトにでもしたら?」
「うるさいわよ。眼鏡を気に入ってるんだからいいでしょ。それより、これで通算、二百五十勝一敗ね。芳樹ももう少しがんばってくれないとつまらないじゃない。あがり症で緊張して押せないっていうけれど、あたしとは毎日クイズしてるんだから大丈夫でしょ?」
「そう言うけれど、やっぱ、駄目なんだよね。クイズが始まると心臓がドキドキちゃって……」
「あのとき芳樹が一勝したのは奇跡ってことか」
芳樹の唯一の一勝は、香奈子が半年前に、二人で続けていても意味がないからと、クイズ研究会を解散しようと言い出したときのことだ。勝負して勝ったら思いとどまることにして戦ったのだが、偶然にも芳樹が勝った。というか、香奈子にクイズをやめてほしくなくて、緊張している暇もなかったのが本当のところだ。
「あーあ。ほんと、つまらないわ」
香奈子は、寂しげな目で虚空を眺めていた。いきなりテンションのダウンした香奈子。芳樹の顔からは笑顔が消え、香奈子の顔をじっと眺めた。
めったに見せない真剣な眼差しに、芳樹は「どうしたの?」と訊きたい衝動にかられたが、香奈子が装置を片付けはじめたから、無言で手伝った。
芳樹と香奈子は、帰り道、自販機でジュースを買った。飲みながら歩いていると、香奈子がいつになく神妙な顔で話し始めた。芳樹もつられて緊張した。
「今度の学園祭でクイズ大会を開くことになっているじゃない」
「ああ、早く準備しないとな。僕は土日も来ようと思うんだけど、香奈子はどうする?」
急に立ち止まる香奈子。
「はっ、どうしたの?」
「クイズ大会……。やめにしない?」
芳樹の顔が引きつった。
「いきなり、わけのわからないことをいうなよ。香奈子がやろうっていいだしたんだろ。学園祭でクイズの楽しさをみんなに知ってもらうんだって、楽しみにしていたじゃないか」
「ごめん。でも、できないから」
「何かあったのか?」
首を横に振る香奈子。
「全国高校生クイズ大会の予選に参加するのもやめるわ」
「どうして、どうしてだよ。自分が全国大会まで進めば、入会してくる人が現れるって、はりきってたじゃないか。どうして、いまさらやめようなんていうのさ」
「ごめんね。芳樹にはちゃんといっておきたかったの」
「半年前、香奈子がクイズをやめたいといって僕と勝負したとき。あのとき、もう二度とクイズをやめるなんていわないって約束したじゃないか」
「誰も、やめるなんて言っていないわ。サークルでのクイズは続ける、それでいいでしょ?」
「そんなんじゃあ、納得できない。学園祭のクイズ大会は僕一人でもやるからな」
「勝手にしたら」
そう言って、香奈子ははがきを一枚、細かくちぎって捨てた。
「おい、それって、クイズ大会の参加証……。本気で参加しないつもりかよ」
香奈子は芳樹に背を向け、走っていった。
「ばかやろー、お前となんかもうクイズしないからなー」
振り向かない香奈子。
家に帰った芳樹は、すぐに着替えて外に飛び出した。住所を頼りに、香奈子の家を訪ねるつもりだった。どうして香奈子の気持ちが変わったのか。理由をちゃんと聞きたかったのだ。
あちこち探しながら、なんとかたどり着いたのは、古い木造アパートの一室。それが香奈子の家だった。
「ここが香奈子の家?」部屋の前に立って呟く。
台所の窓の隙間から中が見え、声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、元気ないね」
香奈子の妹のようだ。小学生、低学年に見える。香奈子が高校二年だから、かなり年が離れていることになる。
「そんなことないわよ。いつもと同じ。ほら、晩ご飯の準備するから手伝って」
「あれっ、お姉ちゃん、今日はアルバイト行かなくていいの?」
「バイトはやめた」
「どうして?」
妹は不安そうな顔で香奈子を見つめた。
香奈子が仏壇に目をやる。芳樹が香奈子の視線の先に目をやると、彼女たちの両親らしい人物の写真が微笑み返した。
芳樹は、香奈子の両親が亡くなっていたことを始めて知った。
「なんにも心配しなくていいのよ。生活していくくらいのお金。お姉ちゃんが何とかするから。ほら、食事したら出かけるから早く準備しよ」
香奈子がこっちを向いたので、思わずしゃがんだ。
「弁当を賭けてクイズをしたり、古い眼鏡を使い続けているのは、そういうわけか……」
芳樹はなんとなく入りにくくなって、帰ろうとした。そのとき、ポストに引っかかったはがきを見つけた。
意識していないのに、はがきの文字が目に入った。
『裏クイズの案内』
送り主の名は書かれていない。
『本日、予定通り開催されます。以上』
簡単な言葉が書かれている。芳樹は眉をひそめた。
「裏クイズ……」
「こんばんは、キング。今日も象のような目ですね。くくく」
コンクリートに囲まれた正方形の狭い部屋。鉄格子のはまった小さな窓から、光が射し込んでいる。
全身を黒のスーツで包んだシルクハットの男が低い声を響かせた。
「今日もお客さん満員ですよ。みんなあなたが負けることを望んでいるようですが、わたしは違いますよ。これからも、連勝を続けて欲しいと願っています。まだまだ、稼がせてくださいよ」
黒い男は椅子に座った別の人物に近づいた。赤いシャツにジーパンというラフな格好で、手には赤いマスクを持っている。
「ところで、今日の裏クイズのルール。ロシアンルーレットクイズですね」
と黒い男。
「らしいね。相手に答えられたり、自分が不正解だったとき、拳銃を額に当てて、引き金を引くやつでしょ。最悪のルールだよ。考えた人間を恨みたくなる」
「怖くないんですか? もし、弾に当たったら、知識を詰め込んだ脳みそが、跡形もなく飛び散っちまうんですよ」
「後先のことなんか考えたことはないね。僕は出された問題を答える。いつもたたそれだけを考えている」
「さすが、無敵のキング。マスクをつけて自分をかくさないと緊張してクイズができない人とは思えないですな。あっ、そういえば、今日の対戦相手は、ピチピチの女子高生だそうですよ。女子高生の脳みそ……」
舌なめずりをする。
「少し分けてもらえないかねえ。くくく」
気持ち悪い奴だと男は目線をそらした。
立ち上がった男の姿が鏡に映る。
左手の人差し指のクイズタコ(早押し機を使い過ぎてできるタコ)と大きな目が薄暗い中でなんとか確認できる。
鏡に映ったのは、一宮皇道高校クイズ研究会の須賀芳樹だった。
芳樹はマスクをかぶり、大きくため息をついた。プロレスラーがつけるのにも似た、赤が基調の炎をあしらったマスクの奥の目は、自分の手のひらを見つめていた。
芳樹が会場への入り口に立つと、馬鹿でかい歓声が聞こえ、アナウンスがされた。
「さあ、盛大な拍手でお迎えください。裏クイズ界の若き帝王、『キング』の登場だー」
扉が開くとまぶしいライトの光が射し込んできた。
観客は、中年の男たちばかりだった。
狂ったように「キング、キング」と叫んでいる。スーツ姿の男もいれば、正体を隠すためフードをかぶっている男もいる。
クイズ対決が行われるステージは、円形の会場の中央に位置していた。スポットライトの中に、早押し機が備え付けられた席がふたつ浮かび上がった。
すでに挑戦者の女性は席についていた。ピンク色のマスクをつけていたが、それが香奈子であることはすぐにわかった。
芳樹は適当に手を振りながら、香奈子に正体を気づかれないよう、伏目がちに歩いて席についた。
長いあご髭を生やしたアナウンスマンが、
「それでは、裏クイズ、今日も開幕です」
というと、会場が壊れそうなくらいに盛り上がった。
「本日のルールはこれだ」
といって赤い風呂敷の中から拳銃を取り出し、観客に見えるよう高く持ち上げた。
「ロシアンルーレットクイズ」
会場は大盛り上がりだ。熱狂して隣の男を殴りつける観客もいる。
「出された問題に、相手が正解した場合、もしくは自分が間違えた場合にこのリボルバーをこめかみに当て引き金を引いてもらいます。……」
香奈子をみると緊張した様子で説明を聞いている。
ふたりの中央の位置にある台に拳銃が置かれた。
早押し機に乗せた香奈子の手は微かに震えているように見えた。
「それでは、裏クイズ。レディー、ファイ」
「問題、ホメロスの長編叙事詩『オデュッセイア』に登場する、漂着したオデュッセウスを助け…..」
ポーンと香奈子のランプが点いた。
――オデュッセウスを助け…..か。オデュッセウスに恋心をいだく女性だな。アニメ映画のモデルにもなっていたし、香奈子向けの問題だな――
芳樹は腕を組み、香奈子の様子をうかがった。
「ナウシカ」
少し間があって正解の判定。
香奈子がほっと胸を撫で下ろす。
芳樹は手を伸ばし、拳銃をつかんだ。ずっしりとした重みを感じた。
そして、迷わず引き金を引いた。
カチッという乾いた音が響き、会場全体からオーッという声が聞こえた。
「一発目、オッケー」
のんきにいう芳樹を、香奈子は心配そうな目で見つめていた。キングの正体が芳樹だということに気がついていない。仮面をつけ人目を恐がらない芳樹は、香奈子の思っている芳樹とは別人だった。
「君は、どうしてここに来た? この危険な裏クイズに」
拳銃を戻しながら問いかけた。普段よりこもった声を出した。
「どうしてって、勝って賞金の一千万円をもらうために決まってるでしょ」
「くだらん理由だな」
香奈子がむっとした。
「あんただって、賞金が欲しくて来てるんでしょ」
「僕はお金なんかいらない。クイズプレイヤーとして、ただクイズを楽しみたいだけだよ」
「かっこつけちゃって」
目線を逸らし、早押し機を強く握ると、
「生きていくためにはお金が必要なのよ。楽しんでなんかいられない」
とつぶやいた。
「問題、地中海にあるイタリア領の自治州で、イワシが多く捕れる海域にあることから名付けられた…..」
解答権を得たのは芳樹だった。
「サルデーニャ島」
正解。
「イワシにちなんでで、どうしてサルデーニャ島なの?」
「イワシは英語でサーディン、だろ?」
「なるほどね」
「感心してないで、とっとと拳銃を持てよ」
「わ、わかってるわよ」
香奈子は銃を片手で持ち上げようとしたが、意外に重いと感じたのか、すぐに両手に持ち変えた。
しかし、振るえてなかなか引き金を引けない。
「どうした。びびってるのか?」
「わたしが? そんなわけないでしょ」
でも、手が震えてる。
「怖くないったら、怖くないのよ」
そう叫びながら、引き金を引いた。弾は出なかった。
会場からは残念だといわんばかりのため息が漏れた。
荒い息をする香奈子。
「冷静になって周りを見てみろ。あの禿げ頭の親父」
指を指す。
「舌で唇を舐めているだろ。君の脳みそが破裂するのはいつなのだろうかと、待っているんだ」
ごくりとつばを飲み込む香奈子。
「ここは君のような子が来るところじゃない。リタイヤして帰ったほうがいい。ここに出場したら、二度と表の世界のクイズ大会には出場できなくなるのがルールだって知っているだろ?」
香奈子はしばらく考えたが、顔を引き締め答える。
「もちろん知ってる」
「だったら、リタイヤしろ。リタイヤすれば出場したことにはならない。普通のクイズ大会に参加できるんだ」
「でも、だめよ。帰るわけにはいかないわ」
それを聞いて、芳樹は肩を落とした。
「手ぶらで帰ったら、妹に合わせる顔がない」
そうつぶやく香奈子に、いつもの余裕はなかった。
「問題、1884年にアメリカのジョン・ラウドが発明し、1943年にハンガリーのラディスラオ・ビロが実用化に成功した……」
芳樹と香奈子は、ほぼ同時に押した。しかし、解答権を得たのは芳樹だった。
「ボールペン」
正解。
香奈子はしばらく銃を見つめた後、震える手を伸ばした。死の恐怖というものを生まれて始めて体験し、パニックになっている様子だった。
「もうやめとけよ。悪いことは言わない。リタイヤするんだ」
「だめよ。こんなことで帰れない」
こめかみに銃を当てるが、全身が壊れた機械のように揺れている。
「たぶん、もう次で発射する。銃を下ろせ」
「ここまで来たのに、予選を勝ち抜いてやっと…… 」
あきらめきれない様子の香奈子に、芳樹が続ける。
「死体がどう処分されるか知ってるか? 切り刻まれて、帰りの土産にされるんだぞ。連中は君の破片を持って帰るのを楽しみにしているんだ。食べるやつもいる。犬に食わせるやつもいる。それでも、君は死ぬというのか?」
額から流れる汗が床に落ちたとき、香奈子の腕もだらりと垂れ下がった。
「分かった。リタイヤするわ……」
「それでいい。リタイヤするのも勇気だよ」
芳樹は手を貸して香奈子を立ち上がらせる。
出口に向かおうとしたとき、背後から声が飛んでくる。
「待ちやがれ」
振り返ると、控え室で芳樹と話をしていた黒い男が立っていた。さっきの丁寧な口調ではなくなっていた。
「や、柳生隆。どうしてここに? 選手以外は立ち入り禁止だぞ」
「リタイヤですって、すんなり帰れると思ってるのか?」
「リタイヤしたんだ。もう終わりだ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「お客たちの顔を見てみろ。誰も満足しちゃいねえんだよお」
芳樹たちに近づきながら続ける。
「今日の客はなあ。いつものような賭けの配当金目当ての客じゃねえ。ロシアンルーレットで人が死ぬのを見物しに来てるんだ。誰も死にませんじゃあ。終われねえんだよ。撃てよ。撃って死ね」
そう言って、拳銃を差し出す。
「お前、何者だ? ただの客じゃないな?」
無気味に笑った柳生は、服を脱ぎ捨て、背中を見せた。「Q」の一文字が大きく書かれている。
それを見た、芳樹の表情が変わった。
「おまえが、裏クイズの永久チャンピオンだったのか」
「永久チャンピオンって?」
香奈子が訊く。
「裏クイズの対決で、百人勝ちぬいたら、永久チャンプとなれる」
「わたしは、主催者に雇われて、裏クイズの戦いがきちんと行われているのか監視しているんだよ。ただで帰すわけにはいかないね」
「彼女には将来がある。助けてやれ」
「相変わらずあまいなあ。お前は。見ず知らずの女を助けようとするとはな。まあ、お前には儲けさせてもらってるから、考えてやらないこもない」
ほっとする二人。
「しかしだ、何もしないで見逃すわけにはいかない」
「どうしたらいい?」
柳生は不敵に笑い、
「俺と勝負しろ」
会場がチャンプとキングの戦いを期待して盛り上がる。
「永久チャンプと勝負? 冗談だろ」
「俺と勝負して勝ったら、女は見逃してやろう。しかし、負けたら……、おい」
柳生の声でどこからともなく男が現れ、香奈子を強引に連れて行く。
「待て」
引きとめようとした芳樹の腕を柳生の大きな手が掴んだ。
謎の男は香奈子の足と手に手錠をかけた。
「負けたら、女の頭を撃ちぬく」
男が香奈子の頭に銃を付きつけた。
会場は「柳生、柳生」の大合唱。もう、断ることはできない。
「時間のかかる勝負は面倒くさい。短期勝負といこう」
チャンプが余裕を見せる。
「三勝ちか?」
「そうだ。早押しの勝負で、三問正解で勝ちだ。だけど、一問でも間違えたらその時点で負けだ」
――相手は百戦練磨のチャンプだ。長丁場なら実力の差が出るが、短期決戦なら勝てる可能性はある。望むところだ――
「あたし……」
涙ぐんだ香奈子が、芳樹を見つめる。
「安心しろ、僕は負けないさ」
自信はなかったが、香奈子を不安にさせないためには、そういうしかなかった。
二人は向かい合ってステージの席についた。
チャンプの存在感に芳樹は押されているようだった。早押し機が全部隠れてしまうほど大きな手が、問題はまだかとぴくり、ぴくりと動いている。
「気楽にやれ。負けてもどうってことはない。知らない女が死ぬだけだ。むははは」
「くっ」
芳樹の頬を汗がつたった。
「問題、人類初の動力飛行を成功させたことで有名なライト兄弟。兄は……」
ランプが点いたのは、柳生。
「は、早い。『兄』辺りで押していた。問題は『兄は……』まで読まれたけれど、むちゃな押し方だわ」
香奈子が間違えることを期待して言った。
一問でも間違えれば、負け。その勝負でこんな無謀なことをするとはと、笑いがこみ上げていた。
しかし、芳樹はもう正解されたとでもいわんばかりに悔しがっている。
「オービル」
柳生が当然のように答える。
正解の判定。
「ど、どうして?」香奈子の溜息混じりの声。
「読ませ押しだよ。『兄』で押して、『は』まで読ませる。最後の『は』が上がり気味に発音されていたから、兄は『ウィルバー』ですが、弟の名は?という問題になる。兄の名を答えさせるのなら『は』の発音を上げないし、問題が短くなるから、ふりの部分をもう少しゆっくり読むはずだ。早い口調で読むのは、まだ先が続きますよという合図だ」
「……」
香奈子は柳生の実力に愕然とした。
「そういうフリの問題かもしれないとは思ったけれど、僕には押せなかった」
芳樹が悔しそうに言った。
――柳生は間違えてもなんのリスクもない。それにひきかえ、マスクの人は、わたしの命がかかっているから、いちかばちかでは押すことができないんだわ――
香奈子は歯がゆい思いで唇を噛んだ。
「問題、『生地に文字がかけるほどゆるい』という意味の文字焼きが……」
ポーンと柳生が押した。わかったという顔をしている。
「もんじゃ焼き」
正解。
「『文字焼き』がなまって、もんじゃ焼きか…..。少し考えれば誰でもわかる問題だけど……」と香奈子。
「もうリーチか。ざまあみろ、キングは間違えることを恐れて、いつもの力が出せてない」
銃を突きつける男が独り言のようにいった。
「これなら、後一問で……、ズギューン、だな」
香奈子の顔がゆがむ。
「ねえ、マスクの人」
「えっ」
香奈子の声に思わず声を上げた。
「わたしね。はじめてクイズに答えたときのことをよく覚えてる。小学生のころお父さんとクイズ番組を見ていて、『わかったー』って思いきり答えを叫んだの。あのとき、ちょっと大人になった感じがして、楽しかった」
「クイズって、そんなものよね。気楽に答えて楽しむお遊び、苦しいものじゃない」
「楽しむ、お遊び…..」
「わたしなら大丈夫。あなたが負けたら、こんな手錠引きちぎって逃げるから」
マスクの下に笑顔を見せる香奈子に、芳樹の胸は熱くなった。
「やっぱり、あんたは表の世界がよく似合うよ」
二人のやりとりにイライラした柳生が言う。
「なにいってやがる。表の世界なんかに戻れねえよ。ここで死ぬんだからな」
柳生が高笑いをした。
芳樹は動揺する様子もなく、目を閉じたまま微動だにしない。
会場全体が芳樹を見守っている。そんな雰囲気だった。
柳生も金縛りにあったように動けないでいた。
「あっ、帽子が……」
香奈子は、芳樹の帽子から光が出ているように感じて声を上げた。
その声を合図にしたように、芳樹の帽子は黄金に輝きはじめた。光は会場の隅に届くほどに激しいものだった。香奈子も思わず目を閉じた。
「キングの『クイズ脳』が発動した。は、はじめて見た」
銃を持った男の手の力が抜ける。
「『クイズ脳』? なにそれ?」
「早押しクイズでは、問題を聞いて意味を理解し、分かったと判断して、ボタンを押すだろ。知識をつめ込むのは言語脳である左脳だが、分かったと判断するのは右脳だ。キングの右脳は普通の人の十倍の反射速度を持つ、いわゆるクイズ脳なんだよ。ただ、集中力が最高の状態じゃないとクイズ脳の能力を発揮できないらしい」
香奈子はわくわくしながら話を聞いた。
「帽子は、装着した人間の集中力を感じて光を放つ特注品なんだよ。帽子が最高の集中力を感じとって、黄金の光を放つ。それがクイズ脳が発動した合図だ。キングのクイズ脳が発動すると問題の声が一文字、一文字、スローモーションで聞こえるくらいに右脳が活性化されるらしい」
香奈子は関心した様子で芳樹を見守った。
「やっと本気になったか、キング。だが、俺は後一問答えれば勝ちだぜ」
柳生の挑発にも、目を閉じたまま無反応だった。
「俺の知識と経験が勝つか、お前の『クイズ脳』が勝つか勝負だ」
「問題、作者がエジンバラ大学の医学生だったころに知り合った外科部長……」
ここで押したのはキングだった。
「外科部長をモデルとした……、とでも続くのかしら?」
香奈子はキングに注目した。
「シャーロックホームズ」
正解。
「おーっ」という会場の低い声。
「そうか、ジョセフ・ベル教授だわ。シャーロックホームズのモデルになったらしいって聞いたことがある」
「一問答えたからって、いい気になってるんじゃねえぞ」
柳生の言葉にも、芳樹は相変わらず目を閉じたまま無反応だった。
「問題、『バネに力を加えて……」
二人ほぼ同時に押したが、解答件を得たのはキングだった。レイコンマ何秒の戦いだった。
「フックの法則」
正解。
「やったー、『バネに力を加えて引っ張るとき、バネが伸びる長さは力に比例する』、イギリスの科学者の名前を使ってフックの法則っていうのよね。学校でも習ったわ」
会場はどよめいていた。
「これで二対二の同点。次の問題を正解したほうが勝ちね」
「問題、ジーン・ウェブスターの小説『足長おじさん』で……」
押したのは芳樹。
『で』の手前で押す、読ませ押しだった。もちろん、柳生も押していたが、芳樹の反応速度に勝てなかった。
柳生は顔を歪め、答えるのを待った。
「お願い、正解して。マスクの人」
指をからませて祈る香奈子。
芳樹は、地蔵のように固まったまま、ゆっくりと口だけを動かした。
「ジャービス・ペンデルトン」
会場全員が息を止めた。
と、次の瞬間、高らかに鐘の音が鳴った。正解の判定だ。
「くそっ、俺が負けるなんて……、これがクイズ脳の実力か……」悔しがって机を叩く。
「がっかりするな。クイズの女神はいつも気まぐれだ」
そう言って、芳樹は香奈子のもとに歩み寄った。
香奈子は、
「早く手錠を外しなさいよ」
と銃を持った男に催促した。
手錠を外してもらうと、
「ありがとう、マスクの人」
「さあ、今度こそ帰ろうか」
香奈子はかわいく頷いた。そのころにはもう、芳樹の帽子は元に戻っていた。
廊下を歩きながら、加奈子の様子をうかがっていた芳樹が問いかけた。
「どうした。ぼうっとして」
「ある人のことを思い出していたの」
「彼氏か?」
「ううん。そんなんじゃないけど、すごいおせっかいなやつ。君と同じでいつも帽子を被ってるの」
芳樹はどきりとして、目をそらす。
「さっきも言ったけど、僕はお金のためにクイズをやってるんじゃない。賞金の一千万円は、君にあげるよ」
「うれしいけど、いらないわ。助けてもらってばかりじゃ、なさけないもの。自分の力で生きて行けるようにがんばるわ」
「かっこつけやがって。じゃあな。もう裏の世界には来るなよ」
香奈子は、マスクを取って問いかける。
「足長おじさんの本名は『ジャービス・ペンデルトン』だったけれど、あなたの本名は?」
芳樹はちょっと困ってから、
「僕に名前はない。でも、人はこう呼ぶ、『クイズキング』と」
おどけていったつもりだったが、香奈子は真剣な表情で見ていた。
芳樹は軽く手を振り、恥ずかしそうに走り去った。
「クイズキング……、か」
香奈子は笑顔で見送った。
次の日。芳樹が学園祭の準備をしていると、香奈子がやってきた。
目が合った瞬間、香奈子はおどおどと目を泳がせた。
「あ、あの……」
「来るの遅いよ。一人で全部やらせる気か?」
香奈子は頬を緩ませ、芳樹の隣に座った。
「これ、いるんだろ」
芳樹は貼りあわせたはがきを差し出した。
香奈子が破り捨てた高校生クイズ大会の参加証だった。芳樹は拾い集めて、テープで貼っていたのだ。
「あ、ありがとう。芳樹ってほんと、おせっかいよね」
「うるせえ」
「わたしも、今日はいいもの作ってきたんだ」
と言って、香奈子はかばんの中をごそごそと捜すと、
「あ、これこれ」
とマスクを取り出した。
そのマスクは、芳樹が裏クイズでつけていたマスクそっくりだった。
芳樹は思いもしないものを見せられて、体が固まった。
「どうかした?」
「な、なんでもないよ」
「これをつけてクイズ大会の司会をするの。『司会のクイズキングでーす』ってね」
「ふーん。まあ、とりあえず着けてみろよ」
香奈子が不慣れな手つきでマスクをつける。腕を組んで観察していた芳樹は、香奈子のマスク姿を見た瞬間に吹き出した。
「だっせー、何それ。マスクの上に眼鏡かけるか、普通」
「こらっ」
芳樹ははしゃぎながら逃げ出した。それを、香奈子は満面の笑みで、追いかけた。
END